名古屋で成し遂げた2つの快挙−79年ABC、90年AJBC−
“仙台の奇跡”と呼ばれた2004年1月のアジア女子選手権準決勝・韓国戦は記憶に新しいところですが、
名古屋で生まれた過去の名勝負も振り返ってみよう。


1979/11/30〜12/12

第10回男子アジア選手権大会 決勝リーグ   日本vs韓国


 モスクワ五輪の予選を兼ねた第10回アジア選手権は名古屋市の愛知県体育館で79年11月30日から13日間の日程で開催された。 小浜元孝監督率いる日本代表は予選リーグを危なげなく全勝で突破。 決勝リーグでもフィリピン、インドに連勝し、韓国との一戦を迎える。 日本は、この試合までの4年間で一度も韓国に勝っておらず、戦前は苦戦が予想されていた。 しかし、韓国には時の大エース・金東光、中国にはアジアの大巨人・穆鉄柱がいたように、日本には北原憲彦がいた。

 日本のスタートは山本(175cm)、桑田(190cm)、森(191cm)、北原(201cm)、沼田(204cm)。 この頃の日本代表で軸となっていたのは、ガードは桑田健秀と山本浩二、フォワードは森哲と結城昭二、センターフォワードは北原憲彦、センターは沼田宏文と岡山恭崇、以上のメンバーです。
 立ち上がりから試合を優位に進めたのは意外にも日本。 北原と沼田、そして途中からコートに立った岡山の3人でインサイドを完全に支配したばかりでなく、 脚のあるマンツーマンディフェンスが機能して韓国に思うようにシュートを打たせなかった。 攻撃面では外からは桑田が正確なシュートを放ち、ゴール下では北原が類稀な強さを見せて大活躍。 終わってみれば日本が100−85(62-39、38-46)で勝利、韓国を相手に予想もしない奇跡的な試合を見せたのだった。

 優勝を懸けて臨んだ中国戦は延長の末に70−68(38-33、26-31、6-4)で惜敗。 僅か2点差で破れる残念な結果に終わり、アジア制覇はならなかったが、 小浜監督が「最高のゲーム」と語ったこの第10回ABC・韓国戦における勝利は日本バスケの長い歴史を紐解いても小さな出来事ではないでしょう。

 日本男子は76年モントリオール大会を最後にオリンピックから遠ざかっているが、 モントリオール五輪の出場権は実力で勝ち取った切符ではなく、 前年のバンコクABCで優勝した中国の不参加(当時、中国はIOCに加盟を認められていなかった)によって大会2位の日本が繰上げで出場したオリンピックでした。 ゆえにミュンヘン五輪予選を兼ねていた71年東京ABCでの優勝以降でいえば、 この名古屋ABCが現在に至るまで最も五輪に近づいた大会だったのかもしれませんが、 仮に中国に勝って優勝していたとしても【オリンピック不参加】という憂い目に遭っていたわけで、皮肉なものです。

1990/08/25〜09/02

第11回男子アジアジュニア選手権大会   アジアの頂点に


 第11回アジアジュニア選手権大会は90年8月25日〜9月2日の日程で名古屋を舞台に開催され、 長谷川、天野、関口といった若きスター達が世界選手権の切符獲得に挑んだ。

 予選リーグで中国台北、インドネシア、スリランカと同じBブロックに入った日本。 緒戦のインドネシア戦を98-46、続くスリランカ戦を100-43とスコアこそ圧倒したが、緊張感に欠けるプレーが目立ち、 快勝とは言い難い試合を見せてしまう。 その反省から気持ちを引き締めて臨んだ中国台北戦では田中監督も絶賛する内容で87-72で勝利。 スターターを外されて奮い立った天野が次々にシュートを決めて、大会の一試合個人得点ランク3位に入る35得点を挙げた。

 予選リーグをトップで通過した日本は2次リーグでマレーシア、香港、シリアと対戦。 マレーシアには116-62と圧倒、香港戦はアウトサイドからのシュートに苦しんだが102-73と最後は自力の差を見せる。 そして2次リーグの最後に難敵シリアとの一戦を迎えた。 シリアは予選リーグの韓国戦で残り0秒のブザービーターで劇的な逆転勝利を収めてDブロックを1位で抜けた強豪で、 5人の選手が既にナショナルチーム入りしているチームであった。 試合は開始からシリアペースが続き、日本はインサイドで主導権を握られて苦しい展開となるが、 後半に入るとシリアがファウルトラブルに陥って自滅。 徐々に流れを引き寄せた日本が残り6分を切ったところで初めてリードを奪い、そのまま67-61で勝利。 苦しみながらもベスト4に進出した。

 準決勝の相手はフィリピン。日本は関口がゴール下で奮闘を見せてチームを牽引し、 対するフィリピンもナショナルチームに選出されている主将のリンポット(F/195cm)を中心に卓越した個人技を魅せる。ともに譲らず拮抗した展開となり、前半は36-36の同点で折り返す。 後半も一進一退の攻防が続いたが、天野が残り24秒で勝ち越しゴールを決めて78-76で勝利。 粘るフィリピンを振り切った日本が1970年第1回大会以来となる決勝進出を果たした。 ちなみにリンポットは、この後にプロリーグ「PBA」でスター選手になっている。 現在はPurefoods TJ Hot Dogsに所属しており、PBAの中でもトップクラスの高給取りだそうな。

 遂に決勝へと駒を進めた日本。決勝戦は、もう一方の準決勝で中国を破ったシリアとの再戦となった。 初優勝を懸けて挑む日本のスターターは長谷川(181cm)、天野(186cm)、佐久本(190cm)、古田(199cm)、関口(205cm)。 試合は攻守に渡って冴えを見せる日本が終始ペースを握る展開。 流れを引き寄せたいシリアは2次リーグで対戦した時と同じようにハットのポストプレイで活路を見いだそうとするが、 ここは古田が粘りあるディフェンスで封じ込める。攻めては絶好調の長谷川が立て続けにシュートを沈めていく。 相手オフェンスを封じ、リズムに乗って得点を重ねた日本が82-69でシリアを制して完勝。 田中徹雄率いる日本代表がアジアの頂点に駆け上がった。

日本がアジアジュニアを制したのは後にも先にも、この一度きりである。

=伝説を作った12人の戦士たち=

C長谷川誠(PG 日本大1年 181cm 71s)
大会通算147得点。得点ランク8位。3ポイント成功数4位。
1試合個人得点8位…31得点・シリア戦(決勝)、16位…29得点・シリア戦(2次)。
大会を通じて大暴れし、決勝のシリア戦では3ポイント6本を含む31得点を挙げて優勝に導いた。 長谷川が大舞台で見せる勝負強さは、この5年後の福岡ユニバでも発揮される。

D関口聡史(C 日本大1年 205cm 120s)
大会通算82得点。1試合個人得点21位…28得点・フィリピン戦(準決勝)。 大会序盤は不安定なプレーが続いたが準決勝フィリピン戦で奮起してゴール下を支配。 目を負傷して片目しか見えない状態の中でチーム最多の28得点を記録した。

E堀内進一(F 中央大1年 190cm 81s)
大会通算6得点。ナショナルレベルの選抜チーム選出は今回が初めてだったが、マレーシア戦で登場して連続ゴールを決めた。

F天野佳彦(SG 日本大1年 186cm 75s)
大会通算147得点。得点ランク8位。3ポイント成功数5位。1試合個人得点3位…35得点・中国台北戦(予選)。 日大進学直後はシュートのタイミングが一定せずに苦しんでいたが、この大会では全ての試合で二桁得点を記録して長谷川と並ぶ通算147得点を挙げた。特に中国台北戦では3P6本を決めるなど計35点の大活躍。

G返田秀樹(CF 中央大1年 195cm 83s)
大会通算56得点。シックスマンとして起用され、存在感を見せた。

H赤穂真(CF 日体大1年 195cm 85s)
大会通算62得点。それまでのセンターからフォワードにコンバート。走れるCFとして大学、JBLで活躍する原点がここに。

I古田悟(CF 日体大1年 199cm 90s)
大会通算88得点。安定したディフェンス力でチームを支えた。

J風間剛(GF 青山学院大1年 190cm 78s)
大会通算31得点。2番、3番の控えとしてプレー。マレーシア戦では攻守に渡って活躍。

K八百板希望(CF 中央大1年 191cm 83kg)
大会通算7得点。元々はCで1月の台湾遠征からFにコンバートされたばかりだったが、マレーシア戦では外からも果敢にシュートを放つなど大会を通してプレーの幅を広げた。

L佐久本智(SF 福岡大附大濠高3年 190cm 80s)
大会通算87得点。名古屋AJBCメンバーの中で唯一の89年マニラAJBC(89/1/22〜2/4)参加選手で2度目のアジアジュニアとなった佐久本。 高校生ながらスターターで起用された。

M出口実(C 北陸高3年 202cm 90s)
大会通算15得点。マレーシア戦で高さを生かしたプレーで貢献。

N武谷歩(C 洛北高2年 207cm 107s)
大会通算2得点。チーム最年少にして最長身。89年の全日本ジュニア合宿の頃には福岡大附大濠の古賀宣成(1972.11.28生 200cm 75s)がセンター候補の1人として選ばれていたが、最後に武谷が12名に滑り込んだ。 第一戦のインドネシア戦でコートに立ち、1ゴールを決めた。

 見事にアジアを制した日本であったが例のゴタゴタの影響で、長谷川ら主力選手7人が世界大会の代表参加を辞退し、監督も辞任する異常事態を招く。
結果、初出場のジュニア世界選手権で日本は大惨敗。全敗を喫して16位(最下位)に終わった。

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